前号の
【6】耐容一日摂取量:TDI (閾値がない化学物質)からの続きです。
実質安全量(VSD)などの考え方を国民に説明するため、科学者は様々な努力をしてきたが、
リスク認知(Risk perception)
「日常食べるものに危害があってはならない」という
素朴な信念に対して、中世から科学の世界では常識の「全てのものは毒である。毒でないものはない。適正な用量が毒と薬を分ける」という
パラケルサスの説を繰り返しても容易には
受け入れてもらえない。
そこで、
リスク認知という学問分野が生まれた。
これについて、
国際化学物質安全性計画(IPCS)の教材
化学物質の安全性に関する科学的一般原則(
IPCS Training module No. 4(document 2): General scientific principles of chemical safety)には、次のように書かれている。
危害を評価してそれらの低減または排除の方策や規則を策定するためのリスク査定、リスク評価およびリスク管理に従事する解析者とは対照的に、大多数の個人は一般的にリスク認知と呼ばれる直感的判断に依存している。これらの人々おいては、危害に関する経験は、世界で起きた不運な事故や脅威を主に提供する報道機関からやってくる傾向にある。 |
科学者は、電子顕微鏡や分析機器を使って、五感では感知できない事象を捉えることを続けており、複雑な自然界の現象を理解する努力を続けている。そして、科学は様々な利便性を生み出してきたが、それらは自然界のごく一部であり、
未解明の部分が圧倒的に多いことを理解している。
他方、
一般国民は、科学が生み出した利便性を享受する中で「科学は万能である」という神話を抱いている反面、「現代社会における核兵器や環境汚染物質など科学は人類に不幸をもたらした」という
反感を抱いている。そうした中に、まれに起きる事故が報道されると、前者よりも後者の気持ちが高まる。
利便性と事故は切っても切れない関係にあり、一方だけを選ぶことはできない。
観察可能性と制御可能性の四象限に分けたリスク認知のモザイク模様
五感では感知できないリスクを説明するために、
感知できるリスクと対比することが有効であろうと
リスク認知の科学者は考えた。それに、
制御可能かどうかという要素を加えて、次の図が出来上がった。
左下の
観察可能で制御可能なリスクは、一般国民が日常的に経験している事象であり、左に行くほどリスクを回避することが容易である。
左上は
暴露されたことが判りにくいが比較的制御しやすいリスクである。
この二つの面に配置されたリスクが大規模な社会的不安を引き起こすことは少ない。
他方、
右半分に配置されたリスクは
制御が困難であり、とくに、
右上の
観察が難しいリスクについては大きな社会的混乱を起す可能性がある。
右上に配置されている
DNA技術は、
遺伝子組み換え作物を巡って数多くの消費者団体が活動していることから理解はできるが、
原子炉事故より上に配置されているのはどうしてだろうか? その理由は
放射線障害に関しては多数の研究実績があるが、
DNA技術が生み出したものについての健康障害に関する研究は歴史が浅く、全容が分かっていないという点で
不安を招きやすいからであって、制御の可能性については、当然のことながら
原子炉事故の方がより困難である。
リスクの比較(Risk comparison)
さて、
リスク認知の解析に基づいて、次のステップとして科学者は
リスクの比較を国民に提示し、理解を求めた。
ICPSは次のように述べている。
表12は、1990年にWilsonが死亡の機会が100万に1人の割合で増えると推定したリスクの一覧であり、多くの場合それらは許容できるリスクと考えられ、非常に低い確率で起きる事項についての事実認識を人々が習得する手助けとして有用であろう。しかし、健康と福祉に対する様々な脅威を確率事象として単純に受け止めない多くの人々がいることも示唆されている。 |
100万人に一人の死亡者をもたらすリスクを計算するためには、詳細な
疫学調査と
用量―反応の数理モデルが必要である。たとえば最上段の「1.4本のタバコ」を例に採ると、喫煙と肺癌が関係していることは誰でも知っているが、1.4本という具体的数値を示すためには、癌患者と健康人の喫煙本数を調査し、実際の癌の発生状況と相関する数理モデルを検討しなければ出てこない。こうした苦労を重ねて出来上がった一覧表なのである。
表12 死亡の機会が100万に1人(10-6)の割合で増えると推定したリスクの一覧 1.4本のタバコ | 癌、心疾患 |
500mlのワイン | 肝硬変 |
ピーナッツバターをスプーン40杯 | アフラトキシンBによる肝癌 |
マイアミの飲料水を1年間飲用 | クロロホルムによる癌 |
12オンス(340ml)のダイエットソーダ30本を飲用 | サッカリンによる癌 |
木炭で焼いたステーキ100枚の摂取 | ベンゾピレン*による癌 |
ジェット機で6000マイル(9654km)飛行 | 宇宙線による癌 |
石またはブロック造りの建物に2ヶ月間居住 | 自然放射能による癌 |
良心的病院で1枚の胸部X線写真撮影 | 照射による癌 |
戸外の典型的な原子力発電所の周辺で5年間居住 | 照射による癌 |
* ベンツピレン
【つぶやき】
表の全ては引用してはいませんので、原典をご覧ください。
基準リスクが小さいために“死亡の機会が増える”と言われても実感に全く結びつかないですね。ゼロ同士を比べているようで、それが、この比較の弱点かと思います。
放射線については今の日本にはSvの単位で示したほうが良いので、ブログ主が計算します。LNT仮説では“がんによる死亡者数は1 Svで5%(0.05)増加するとされる”ので、
10-6=(5×10-2/Sv)×(2×10-5Sv) で、0.02 mSvすなわち20 μSvになるかと。
リスク比較の例を【資料編6】リスク比較図表のいろいろにまとめてあります。 「危険か安全か」という二者択一を迫る国民
リスク認知に関するこうした科学者の地道な努力に対して、
危険か安全かという二者択一を迫る日本国民は冷淡である。「100%安全でなければ、安全とは言えない!」という駄々っ子に対して、この表は説得性を持たない。科学者とは、なんと非力なのだろうか・・・・・。
米国産牛の輸入再禁止問題をめぐる日米局長級会合で来日したJ・B・ペン米農務次官は2006年1月24日、米大使館で記者会見し、米国産牛肉の安全性に関して、「
BSE(牛海綿状脳症)のリスクは自動車事故よりはるかに低い。日本の消費者が適切な判断をすると信じている」と述べたが、この科学的立場を説明しただけである。しかし、日本国民の多数と
それを扇動するマスメディアの総スカンに会い、帰国後処分された。<
日本で科学を語ると大騒動になる>という国際的印象を広めた出来事であった。
かつては、鉛筆を削るために小学生の筆箱には小刀が入っていたが、現在では凶器となるために小刀を学校に持っていくことは禁止されている。有用に使うか凶器とするかは、使う者の判断であるが、社会的判断力が衰えると「禁止」ということになってしまう。
利便性と事故の関係は、これに類似する。刃物を使えなくすると、料理もできない子供たちが育ってしまうのだが・・・。
科学と宗教は車の両輪
問題は
「リスクを許容する」寛容性に係わることであり、
許容することによって「どのような恩恵があるか」という相対評価が可能かどうかである。「100万人に一人のリスクを容認するなんて、とんでもない! 生命は地球より重いことを知らないんですか!」と、一方のみを捕まえて、他方を無視する方々には難題であろう。このことは、科学の問題ではなく、世界観、生命観、
心の問題である。
現在の日本で起きていること、いじめ、虐待、自殺、他殺・・・・ こうした現実の中で「
避けても、避けられないもの」とどのように付き合うかは、まさしく
安心立命(あんじんりゅうみょう)を手に入れる宗教の問題であろう。目を三角にして、行政や食品関連業界を非難する前に、「安全に食べる」ことを心がけたら如何ですか?
【つぶやき】
リスク論は価値観の問題なので、それを突き詰めると“宗教”にまで行きつくかも知れませんが、ブログ主は、もう少し軽い感覚で、人々の“環境観”の変化と捉えたいと思っています。 おわりに
岡本教授の【分かりやすい安全性の考え方】の基本部分はこれで終了ですので、ブログ主の勉強も終了に近いです。最後に改めまして岡本教授にお礼を申し上げます。
もし、この先を深堀りしていくと、リスク論の渦に突入してリスクコミュニケーションなどに進んでいくことになろうか、と思われますので止めますが、リスク比較の表12の【つぶやき】に書いた部分だけでも解消できるかも知れないので、暴露マージン(MoE )を勉強しようと思っています。 また、勉強の過程で見つけた関連資料の幾つかを【資料編】としてアーカイブする予定です。 出典(個別に明記してある部分以外)
岡本教授の【分かりやすい安全性の考え方】
実質安全量(2) 【関連エントリー】
★低線量放射線のリスク管理とは [2012/05/02]
★“放射線”と“化学物質”と“リスク”についての雑感 [2013/02/01]
次号:(発がんリスクの比較)暴露マージン:MoE 【追記】【個人的メモ】
リスクコミュニケーションについて
「栄養学のメモと活用」2010/2/10
リスクコミュニケーションが腑に落ちたから部分的に引用
リスク理論入門―どれだけ安全なら充分なのか(作者: 瀬尾佳美)
いろいろと素晴らしい本だと思うのですが、わたくしにとってなにが一番素晴らしかったかと言えば、この本を読んで、ようやくリスクコミュニケーションの何たるかがわかったということです。
リスクに関する専門家と非専門家の格闘は、おおむねそのようなものであったそうです。
専門家やリスクの管理者は、なぜ一般の人々が「合理的」な行動を取らないのかに頭を悩ませた。そして、様々な手段による説得を試みたのである。たとえば、リスク判断の元になった詳細な資料を公開した。(略)だが、詳細なデータや理論は非専門家には理解されず、そのわかりにくさがかえって不信感を招く結果となった。またあるときは、新しいリスクと日常的なリスクを比較して見せた。あるいは、リスクに比べて得られる便益の大きさを示し、その意思決定が社会にどれだけのメリットがあるかを説明しようとした。だが、その判断は信用されず、それどころか、専門家そのものが信用を失う結果を招いてしまったのである。 (『リスク理論入門』p111) |
専門家がいくら説明しても非専門家には理解されず、不信感のみが募る。そのような不信の時代を経て、専門家はあることに気づきます。ひょっとしたら、これは、「リスク」の考え方自体が違うのではないかと。
そこで、リスクコミュニケーションなのです。
専門家と一般の人々のリスク評価は異なっている。それはどちらかが一方的に正しいわけではなく、双方がコミュニケーションを通して学んでいかなければならないものなのである。リスク理論は、「リスク」をなんらかの形で数量化することによって、双方が何によってリスクを評価しているのかを明らかにする。このことによって、人々がなぜある政策に合意できないのか、どこが食い違っているのかが明確になり、建設的なコミュニケーションを可能にするのである。 (同 P88) |
リスクコミュニケーションは社会的な学習の機会を提供する。ここで「学習」とは、リスクに関する知識の習得ではなく、自分の知識や考え方が様々な前提の上で成り立っている暫定的なものであることの認識や、お互いの考え方の暗黙の背景や独自の合理性を知ることなどである。このようなプロセスを通じて、対立する、あるいは政治的に異なる立場の参加者同士は、お互いをより深く理解し、その限界を認識することができるだろう。 (同 p122) |